「改訂 埴原神社沿革誌稿」抜粋
1)初めに
①埴原神社の沿革を記した「改訂 埴原神社沿革誌稿 赤羽純信 追補校正:赤羽重信」と言うものを元にしています。
②現在の長野県松本市中山の埴原北町会、埴原東町会、埴原南町会、埴原西町会が氏子。
③此の地域は、近世諏訪旗本(初代諏訪頼陰)知行地内の埴原知行地で、其れは埴原北(現在は埴原北町会)と埴原南(現在は埴原東・埴原南・埴原西町会)の二つに分かれていた。
④明治四十二年四月十五日に明治政府の神社合祀政策により、鎮守社、十五社、八幡社の三社を合祀し埴原神社とした。
⑤其の意味に於いて、神社の称号「埴原神社」の埴原は神社と直接関係ない。
⑥従って埴原神社の成り立ちは合祀以前の八幡社・十五社・鎮守社の成り立ちと言う事になる。
①埴原神社の沿革を記した「改訂 埴原神社沿革誌稿 赤羽純信 追補校正:赤羽重信」と言うものを元にしています。
②現在の長野県松本市中山の埴原北町会、埴原東町会、埴原南町会、埴原西町会が氏子。
③此の地域は、近世諏訪旗本(初代諏訪頼陰)知行地内の埴原知行地で、其れは埴原北(現在は埴原北町会)と埴原南(現在は埴原東・埴原南・埴原西町会)の二つに分かれていた。
④明治四十二年四月十五日に明治政府の神社合祀政策により、鎮守社、十五社、八幡社の三社を合祀し埴原神社とした。
⑤其の意味に於いて、神社の称号「埴原神社」の埴原は神社と直接関係ない。
⑥従って埴原神社の成り立ちは合祀以前の八幡社・十五社・鎮守社の成り立ちと言う事になる。
2)以下検地帳・棟札・その他の古文書により三社の沿革を簡単に書いてみます。
(ア)八幡社
旧八幡社社額
①古くは若宮八幡社と称し、元蓮華寺裏埴原城山の八幡平にあって北埴原が其の氏子であった。
②古い部分の記録を示します。
(一六四九)慶安二己丑年 神事免 一石 (埴原南分) 注「免:年貢率」
(一六七八)延宝六戊午年 社領八幡免 一石二斗九升六合(中田八間廿七間七 畝六歩)仝六斗三升(木下上田九間十間三畝歩)二口〆一石九斗二升六合(北方田方埴原御検地野帳) 注「上田・中田:検見法、田の等級」
(一六八二)天和二壬戌年八幡宮中之宮地へ御引移(文化十三年百瀬正武書留)「八幡宮の御宝殿は元来(略)北の山に鎮座の古跡あり今は八幡平とよび候事明白なり。」
(一六八二)天和二壬戌年十五社の地内を訳け今の所へ御遷座(略)(現在社務所と宝蔵の間の通り、参道、石段、石垣、本殿跡と確認される。)
(一六八二)天和二壬戌年建立 棟札1
(イ)十五社
旧十五社社額
①南埴原全部がその氏子であった。 注「南埴原とは今の埴原東、南、西の事」
②諏訪地方にある十五社と同様に、祭神は諏訪明神とその御子たち十五神である。
③古い部分の記録を示します。
(一五四八)天文十七年 神主小松掃部□武田信玄公より朱印状をうける。 注「□:解読不能」
(一五九〇)天正十八年 御検地朱印高 二石大明神領
(一六二五)寛永二年 十五社炎上、二昼夜消し止められず、社木も大半焼失、神殿宝器古書類は焼けたけれども、幸御内宝殿御神体はその難を避くるを得たり。
(一六二八)寛永五戌辰年 造立御宝殿 棟札 1
(一六七八)延宝六戊午年 一石七斗九升四合明神免(上田廿五間十一間九畝六歩)
諏訪領主頼陰公より神道長卜部兼敬筆(諏訪大明神 神道長卜部兼敬)の奉額寄進あり。
注「額筆者卜部兼敬は享保十六年十二月十七日歿七十九才」
注「卜部兼敬:吉田兼敬 江戸前中期の神道家」「享保十六年:一七三一年」
(一六九一)元禄四年 十五社・八幡宮鳥居立替
(一六九一)元禄四辛未年 諏訪明神と改名す。
(一六九一)元禄四年辛未造立 棟札 2
(一六九二)元禄五年 埴原南分御成り徝帳 五斗神事免
注「御成り徝帳:御成ヶ割帳と思われる。」
(一七一二)正徳二壬辰年修覆御社 棟札 3
(一七七七)安永六年に十五社に復帰す。
④現在の埴原神社境内南半分に十五社が在った。
⑤神社の称号が「諏訪明神」の頃があった。
(ウ)鎮守社
旧鎮守社社額
①古くより鎮守窪に有り、元は南埴原内一部の胡桃沢・畑中・古屋敷・千石及び尾池の一部集落が其の氏子であった。
②古い部分の記録を示します。
(一六七八)延宝六戊午年 社領ちんじゅ免四斗八升
北方田方埴原御検地帳 注「免:年貢率」
(一七〇五)宝永二乙酉年建立 棟札 1 棟札番号は後述棟札一覧表による。
(一七三三)享保一八癸丑歳修覆御宝殿 棟札 2
(一七六六)明和丙戌載造立 再興せり 棟札 3
注「一七六六年:明和三年」
(一七八三)天明三癸卯天本殿葺替 棟札 4
(一七九五)寛政七乙卯年 御除地四斗八升 注「御除地:年貢免除特権」
(一七九六)寛政丙辰歳修理御宝殿 棟札 5拝殿初めて造立 注「一七九六年:寛政八年」
(一八〇九)文化六己巳歳修覆御宝殿 棟札 6
(一八一二)文化九壬申年二月廿三日 御紋付き御幕を戴く。
③現在の埴原神社境内から南に進み尾根際の鎮守窪に明治末まで在りました。
3)残って居る記録上から最も古いものは十五社の1548年ですが、当然三社は其れ以前からの歴史を有しています。埴原城や埴原御牧からの由来が在るかも知れません。