チルホールによる引き起こし伐採 七つ道具 埴原城 再掲載
チルホールによる引き起こし伐採 七つ道具 埴原城 再掲載
日記の記事を書庫へも記入しました。
スーパーチルS-7二台 一台だけでは引き切れずに二台使う羽目になってしまいました。
チルホールTU-16(1.6ton)も在りますが、本体もワイヤ-も兎に角重い。とても藪や急傾斜の足場の悪い所で使う気になれません。(以前伐った90㎝級は仕方ありませんので使いました。)
専用ワイヤー10㎜20mです。
ワイヤー類は紙袋に入れると扱い易いです。通気性がありますので屋内へ置けば乾燥して、サビの心配がありません。
滑車を通すワイヤーで、6㎜と9㎜、10mです。
今回は 25インチ 63㎝ STIHL026 の出番です。
折りたたみ式の脚立と固定紐です。其程重くありません。許容範囲でしょう。
お馴染みの物です。
75㎜3mスリング五本、5吋125㎜滑車、シャックルです。滑車も二個になりました。
背負子に付いては後述します。
50㎜5mスリング、接続に使うシャックル、投げ上げ用紐
林業安全帯
急傾斜、足場の悪い所で用具を運ぶ時は背負子と麻袋を使います。
麻袋に入れて置けば、藪や落ち葉の中で用具を紛失しなくて安心です。
重宝な物です。
此の地方では、背負子と言わず背板(せーた)と呼んでいます。
一昨年材料から総て手作りしました。良い出来で満足な一品です。
少し小さめにして、藪の中で枝などが引っ掛からないようにしました。
今回は使用しませんでしたが、山岳用のザイルです。
岩登り用の trollシットハーネスです。私は余り使いません。
英国製の年代物です。trollフルハーネスで此を主に使います。
エイトカンは懸垂下降に使います。
カラビナ、テープシュリンゲ其の他は山岳関係者なら判って戴けるでしょう。
若い頃は長野県内の山岳縦走を良くしました。
私は雪渓など雪上確保でピッケル、アイゼンと共に使いました。
岩登りはまともにはやりませんでした。
伊勢湾台風の被害が記憶にある年齢ですから、今後山で以前の装備を使う事は無くなりました。
ハーネスを置いてある台は初めて切った、1mの胡桃大木です。但し農地の中にありましたので、重力のみで倒せました。
此が大木伐採の始まりです。
埴原神社 社殿
埴原神社 社殿 (書庫にも記入しました。) 2019/01/29
明治末、明治政府の神社合祀政策による社殿の変遷に注目して載せました。
拝殿
以前は左右二本の杉の手前に神楽殿が在りました。現在は拝殿の後ろで、拝殿に続く形で、拝殿と本殿の間に在ります。
明治末合祀以前は十五社の拝殿でした。
社務所側から神饌所向きに見た拝殿です。元は茅葺きでしたが銅板に葺き替え、其の時庇を広くしています。
神饌所側から見た拝殿です。
地方の一般的な神社より立派な社殿です。
社務所です。明治政府合祀政策の明治末合祀以前の八幡社拝殿です。拝殿と同様に、元は茅葺きでしたが、銅板で葺き替える時庇を広くしています。
直会殿ですが、明治末合祀前の八幡社神楽殿です。
奉幣使殿です。合祀前の十五社の神楽殿と言いたいですが、先に示したように十五社の神楽殿は拝殿と本殿の間に移転してます。調べれば分かりますが、合祀前の鎮守社神楽殿の可能性があります。
旧八幡社社額です。明治政府による合祀政策で八幡社、十五社、鎮守社が合祀されて埴原神社となった訳ですが、それぞれの社額は拝殿内に掲げられております。
旧十五社の社額です。当然神号は「十五社大明神」です。大明神の方が庶民としては分かりやすいと思います。
十五社の奉献額です。「諏訪神社と由来」の記述が有ります。
近世埴原郷は諏訪旗本知行所でしたから、諏訪地方の十五社と同じく、祭神は諏訪明神とその御子たち十五神です。神社の称号も「諏訪明神」の時がありました。
旧鎮守社社額です。やはり「鎮守大明神」です。旧鎮守社境内へ行きますと規模の大きな神社で有った事が分かります。
明治政府による合祀政策の明治末まで、社殿整備した記録が残って居ります。
埴原神社 社殿
埴原神社 社殿
明治末の明治政府による神社合祀政策による、社殿の変遷に注目して載せました。
拝殿
以前は左右二本の杉の手前に神楽殿が在りました。現在は拝殿の後ろで、拝殿に続く形で、拝殿と本殿の間に在ります。
明治末合祀以前は十五社の拝殿でした。
社務所側から神饌所向きに見た拝殿です。元は茅葺きでしたが、銅板で葺き替える時庇が広くなっています。
神饌所側から見た拝殿です。
地方の一般的な神社より立派な社殿です。
社務所ですが、明治政府合祀政策で明治末合祀以前の八幡社拝殿です。拝殿と同様に、元は茅葺きでしたが、銅板で葺き替える時庇が広くなっています。
直会殿ですが、明治末合祀前の八幡社神楽殿です。
奉幣使殿です。合祀前の十五社の神楽殿と言いたいですが、先に示したように十五社の神楽殿は拝殿と本殿の間に移転してます。調べれば分かりますが、合祀前の鎮守社神楽殿の可能性があります。
旧 八幡社社額です。明治政府による合祀政策で八幡社、十五社、鎮守社が合祀されて埴原神社となったわけですが、それぞれの社額は拝殿内に掲げられております。
旧 十五社の社額です。当然神号「十五社大明神」です。大明神の方が庶民としては分かりやすいと思います。
十五社の奉献額ですが、諏訪神社と由来の記述が有ります。
旧 鎮守社社額です。やはり「鎮守大明神」です。旧鎮守社境内へ行きますと規模の大きな神社で有った事が分かります。明治政府による合祀政策の明治末まで社殿整備記録が残って居ります。
「改訂 埴原神社沿革誌稿」抜粋
1)初めに
①埴原神社の沿革を記した「改訂 埴原神社沿革誌稿 赤羽純信 追補校正:赤羽重信」と言うものを元にしています。
②現在の長野県松本市中山の埴原北町会、埴原東町会、埴原南町会、埴原西町会が氏子。
③此の地域は、近世諏訪旗本(初代諏訪頼陰)知行地内の埴原知行地で、其れは埴原北(現在は埴原北町会)と埴原南(現在は埴原東・埴原南・埴原西町会)の二つに分かれていた。
④明治四十二年四月十五日に明治政府の神社合祀政策により、鎮守社、十五社、八幡社の三社を合祀し埴原神社とした。
⑤其の意味に於いて、神社の称号「埴原神社」の埴原は神社と直接関係ない。
⑥従って埴原神社の成り立ちは合祀以前の八幡社・十五社・鎮守社の成り立ちと言う事になる。
①埴原神社の沿革を記した「改訂 埴原神社沿革誌稿 赤羽純信 追補校正:赤羽重信」と言うものを元にしています。
②現在の長野県松本市中山の埴原北町会、埴原東町会、埴原南町会、埴原西町会が氏子。
③此の地域は、近世諏訪旗本(初代諏訪頼陰)知行地内の埴原知行地で、其れは埴原北(現在は埴原北町会)と埴原南(現在は埴原東・埴原南・埴原西町会)の二つに分かれていた。
④明治四十二年四月十五日に明治政府の神社合祀政策により、鎮守社、十五社、八幡社の三社を合祀し埴原神社とした。
⑤其の意味に於いて、神社の称号「埴原神社」の埴原は神社と直接関係ない。
⑥従って埴原神社の成り立ちは合祀以前の八幡社・十五社・鎮守社の成り立ちと言う事になる。
2)以下検地帳・棟札・その他の古文書により三社の沿革を簡単に書いてみます。
(ア)八幡社
旧八幡社社額
①古くは若宮八幡社と称し、元蓮華寺裏埴原城山の八幡平にあって北埴原が其の氏子であった。
②古い部分の記録を示します。
(一六四九)慶安二己丑年 神事免 一石 (埴原南分) 注「免:年貢率」
(一六七八)延宝六戊午年 社領八幡免 一石二斗九升六合(中田八間廿七間七 畝六歩)仝六斗三升(木下上田九間十間三畝歩)二口〆一石九斗二升六合(北方田方埴原御検地野帳) 注「上田・中田:検見法、田の等級」
(一六八二)天和二壬戌年八幡宮中之宮地へ御引移(文化十三年百瀬正武書留)「八幡宮の御宝殿は元来(略)北の山に鎮座の古跡あり今は八幡平とよび候事明白なり。」
(一六八二)天和二壬戌年十五社の地内を訳け今の所へ御遷座(略)(現在社務所と宝蔵の間の通り、参道、石段、石垣、本殿跡と確認される。)
(一六八二)天和二壬戌年建立 棟札1
(イ)十五社
旧十五社社額
①南埴原全部がその氏子であった。 注「南埴原とは今の埴原東、南、西の事」
②諏訪地方にある十五社と同様に、祭神は諏訪明神とその御子たち十五神である。
③古い部分の記録を示します。
(一五四八)天文十七年 神主小松掃部□武田信玄公より朱印状をうける。 注「□:解読不能」
(一五九〇)天正十八年 御検地朱印高 二石大明神領
(一六二五)寛永二年 十五社炎上、二昼夜消し止められず、社木も大半焼失、神殿宝器古書類は焼けたけれども、幸御内宝殿御神体はその難を避くるを得たり。
(一六二八)寛永五戌辰年 造立御宝殿 棟札 1
(一六七八)延宝六戊午年 一石七斗九升四合明神免(上田廿五間十一間九畝六歩)
諏訪領主頼陰公より神道長卜部兼敬筆(諏訪大明神 神道長卜部兼敬)の奉額寄進あり。
注「額筆者卜部兼敬は享保十六年十二月十七日歿七十九才」
注「卜部兼敬:吉田兼敬 江戸前中期の神道家」「享保十六年:一七三一年」
(一六九一)元禄四年 十五社・八幡宮鳥居立替
(一六九一)元禄四辛未年 諏訪明神と改名す。
(一六九一)元禄四年辛未造立 棟札 2
(一六九二)元禄五年 埴原南分御成り徝帳 五斗神事免
注「御成り徝帳:御成ヶ割帳と思われる。」
(一七一二)正徳二壬辰年修覆御社 棟札 3
(一七七七)安永六年に十五社に復帰す。
④現在の埴原神社境内南半分に十五社が在った。
⑤神社の称号が「諏訪明神」の頃があった。
(ウ)鎮守社
旧鎮守社社額
①古くより鎮守窪に有り、元は南埴原内一部の胡桃沢・畑中・古屋敷・千石及び尾池の一部集落が其の氏子であった。
②古い部分の記録を示します。
(一六七八)延宝六戊午年 社領ちんじゅ免四斗八升
北方田方埴原御検地帳 注「免:年貢率」
(一七〇五)宝永二乙酉年建立 棟札 1 棟札番号は後述棟札一覧表による。
(一七三三)享保一八癸丑歳修覆御宝殿 棟札 2
(一七六六)明和丙戌載造立 再興せり 棟札 3
注「一七六六年:明和三年」
(一七八三)天明三癸卯天本殿葺替 棟札 4
(一七九五)寛政七乙卯年 御除地四斗八升 注「御除地:年貢免除特権」
(一七九六)寛政丙辰歳修理御宝殿 棟札 5拝殿初めて造立 注「一七九六年:寛政八年」
(一八〇九)文化六己巳歳修覆御宝殿 棟札 6
(一八一二)文化九壬申年二月廿三日 御紋付き御幕を戴く。
③現在の埴原神社境内から南に進み尾根際の鎮守窪に明治末まで在りました。
3)残って居る記録上から最も古いものは十五社の1548年ですが、当然三社は其れ以前からの歴史を有しています。埴原城や埴原御牧からの由来が在るかも知れません。
今日の埴原城
今日の埴原城
当地は今、一番殺風景な季節です。写真を載せても面白くありませんが、其の殺風景を伝える為に載せます。
お馴染みの景色です。御覧のように雪が有りません。冬型が続く間は寒いだけで雪が降りません。12月下旬からほぼ-8℃前後(10℃越えもありました。勿論氷点下)の最低気温で真冬日も珍しくありません。
裏山(南斜面)も御覧のように雪がなく、猫が昼寝するのに良さそうな様子です。
農地は12月迄に耕して春まで待ちます。
此の時期は、果樹などの整枝選定作業を樹木が水を吸い上げるまでに済ませます。
余り見せたくない景色です。(逆光で実際より暗くなって写っています。)
冬、全国の天気予報の時長野に何時も雪マークが付きますが、県庁所在地の長野の天気ですから当地には全く当てはまりません。春先まで雪が降らず乾燥しております。
随分昔の事ですが、雪が沢山降る地方の方が「信州ですから冬の雪は大変でしょう、当然個人個人でわら靴を持っているでしょう。あれは雪の中では重宝します。」と言われ「????」
小林一茶の居た所は信州ですが、当方からすると、雪に関して異国の地です。