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埴原城 埴原神社 紹介

改訂埴原神社沿革誌稿 埴原城 埴原神社訪問

改訂埴原神社沿革誌稿

改訂埴原神社沿革誌稿
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 埴原神社拝殿

 

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旧八幡社社額

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 旧十五社社額

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旧鎮守社社額

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改訂埴原神社沿革誌稿
 
 
(ア)初めに
①「改訂 埴原神社沿革誌稿」抜粋2019年1月20日 http://yoichi-emon.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-d4d8d8.html
 を以前載せて置きましたが、時々見られているようです。
②其れなら抜粋でなく、全文を載せれば希に見る方がいるかも知れませんと思って、全文を載せる事にしました。
③兎に角何処かで発表して、御評価を戴いたものではありませんので、間違いや「独り善がり」の内容が有ると思います。
④書いてあるものを其の儘受け取らず、他所のものと比較しながら読んで戴けたら幸いです。
⑤「第8章 補遺・補足」は私がネット上や彼方此方の記事から拾い上げて、書いたものです。「戯れ言」と思って結構です。
⑥ http://yoichi-emon.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-d4d8d8.html  上の始め書きを⑦以降に再記入しますので参考にして下さい。
 
⑦埴原神社の沿革を記した「改訂 埴原神社沿革誌稿 赤羽純信 追補校正:赤羽重信」と言うものを元にしています。
⑧現在の長野県松本市中山の埴原北町会、埴原東町会、埴原南町会、埴原西町会が氏子。
⑨此の地域は、近世諏訪旗本(初代諏訪頼陰)知行地内の埴原知行地で、其れは埴原北(現在は埴原北町会)と埴原南(現在は埴原東・埴原南・埴原西町会)の二つに分かれていた。
⑩明治四十二年四月十五日に明治政府の神社合祀政策により、鎮守社、十五社、八幡社の三社を合祀し埴原神社とした。
⑪其の意味に於いて、神社の称号「埴原神社」の埴原は神社と直接関係ない。
⑫従って埴原神社の成り立ちは合祀以前の八幡社・十五社・鎮守社の成り立ちと言う事になる。
           以下本文 
 
 

改訂埴原神社沿革誌稿

 

                                    赤羽純信

               追補校正        赤羽重信

 

此処に筆者名が無い、B5二十六頁謄写版刷りの「埴原神社沿革誌稿」なる冊子が有ります。此は私の父赤羽純信が昭和五十五年(1980年)迄に身の回りに有った史料を集めたり、筆者(赤羽純信)自身が調査して編集したものです。

棟札は筆者が照明を持ち屋根裏に上がって、引用した史料の確認をしていました。また、言い伝えはテープレコーダを持ち運び、古老の話を記録して、文章にしていました。

父は他にも幾つかの冊子を謄写版刷りで出していますが、自分の名を記入しない人でしたので、筆跡でしか判別出来ません。

此の冊子は古く、変色し謄写版印刷の文字が掠れて読みにくくなっています。従って、余程忍耐強い人でないと読み通す気にはなれない代物です。併し、此の儘にして読まれずになっているのは惜しまれますので、此を解読してパソコン入力する事にしました。合わせて、読み易い様に「ふりがな・注」等を付け、更に参考になりそうな事を最後に補遺・補足として付け加えて置きました。

 

私が手を加えた所は以下の通りです。

①元の冊子は縦書きです。併し私には横書きの方がパソコン入力し易いので横書きとしました。史料中解り難い所がありましたら、縦書きに置き換えて見て下さい。(特に史料・漢文の所)

②読み難い言葉のふりがなの殆どを( )を付けて記入して有ります。

③現在の人には分かり難いと思われる所に説明を、注「 」として記入してあります。

④史料で無く、筆者自身の文章で現在の人が読みにくい所は、主に助詞・接続詞等を替え、書き直して読み易くしてあります。

⑤本文中史料で「□」印は筆者が判読不能とした文字部分です。

⑥本文中「?」印は冊子印刷不鮮明で私が判読不能とした部分です。

⑦当然本文中の頁は変わります。                                               

⑧連番は総て付け加えました。(第一章、一説、①・・等)

⑨補遺・補足は総て私が付け加えました。

 

残念乍ら私は具体的に埴原神社の棟札宝物史料等は調べてありません。私が追補校正するに当たり引用確認した資料はインターネット・国語辞典・漢和辞典です。インターネットの内容は不安が付きものですから、史料を自分で確認すべきでしょう。併し、其れには時間労力共に膨大なものとなります。返って其れが為に、諦めて其の儘にされてしまいそうです。其れよりは見易い様にして、役立たせる事の方が大切と思いましたのでインターネットでも、よしとしました。

インターネット上の参照は殆ど「Wikipediaウィキペディア・フリー百科事典」です。此は任意の人が書き加えますので内容に異議を唱える考えもありますが、返って複数の考え方に晒されますので妥当な内容になると私は見ています。

歴史、宗教は個人、組織によって強固な(凝り固まった)考え方があります。インターネット上で思想信条を強く主張している所は避けて参照していません。

 

埴原神社沿革誌稿を追補校正する事によって、埴原神社の成り立ち、埴原神社に関係した人々の来し方を理解する上で参考になれば幸いと思う次第です。

また、最近埴原城趾に興味を持ち遠方から訪れる方を時々見ます。同じ埴原が付きますので、此を機会に埴原神社にも興味を持って頂ける方が増えれば、其れに超した事は無いと思います。

 

                            赤羽重信        2016年(平成28年)丙申歳12月26日(月)


 

埴原神社沿革誌稿

 

目次

三社の沿革             

鎮守社                 

八幡社                 

十五社                 

三社の明治時代         

埴原神社の神事         

埴原神社の三峰祭     

三社の境内社         

埴原神社の末社       

埴原神社の文化財     

埴原神社の棟札一覧   

                              昭和五五年十二月五日            注「昭和55年:1980年」

 

第1章 埴原神社沿革

中山の埴原には、もと鎮守社・十五社・八幡社の三社が有った。神社合併令により、明治四十二年四月十五日に三社を合併し、神社名を埴原神社とし、埴原区の氏神とした。

当時の記録によると「十五社の在った所を本社に建て替え、中の宮の所へ祀り、埴原神社と改め、十五社・鎮守社・八幡社の三つを寄せ屋根にし、八幡社拝殿は、元は西向きなりしを南向きとし、その他の宮も直して本日完成せるにつき棟上げ、投げ餅は各戸より米一升を出し、各組でつく」と記されている。

翌四月十六日に遷座祭を行う。また明治四十四年三月、村社として、神饌幣帛料供進神社の指定があった。

更に、明治四十五年二月に埴原区有地山林原野三百十九町四反七畝二十歩を埴原神社有財産として寄進した。

それから今日に到ったのであるが、鎮守社・十五社・八幡社の三社が、どの様な変遷で、明治まで来たのかを三社各々について其の沿革を記す。

 

注「神饌幣帛料供進神社(しんせんへいはくりょうきょうしんじんじゃ):終戦まで勅令に基づき県令をもって県知事から、祈年祭新嘗祭、例祭に神饌幣帛料を供進された神社。」

 

第1節 鎮守社

棟札番号は後記の棟札一覧表による。

古くより鎮守窪に有り、元は胡桃沢・畑中・古屋敷・千石及び尾池の一部が其の氏子であった。祭神は猿田彦命で昔は駒形神社と呼ばれていたと謂われる。当時の牧場には何れも駒形神社なる産駒守護神、又は厩の神が祀られている。                                          注「猿田彦命(さるたひこのみこと)」

又、別に此の鎮守社は、昔いつの時代か近くの氏人の齊殿(いわいでん)として祀りし事に発祥し、其の後、年を経ると共に崇敬者が増して、遂には今の宮入川以南の広い範囲に亘る氏子の信仰を得るに至ったものと伝承されている。

御神体は木造と謂われる。

注「齊殿(いわいでん)とふりがなを付けてあるので、祝殿の事として良い。:長野県中部、山梨県西部一帯に広まる同族神の祠。」

 

以下検地帳・棟札・その他の古文書により沿革を記す。

 

(一六七八)延宝六戊午年 社領ちんじゅ免四斗八升   

            北方田方埴原御検地帳                                    注「免:年貢率」

(一七〇五)宝永二乙酉年建立                棟札 1        棟札番号は後述棟札一覧表による。

(一七三三)享保一八癸丑歳修覆御宝殿        棟札 2

(一七六六)明和丙戌載造立 再興せり        棟札 3                注「一七六六年:明和三年」

(一七八三)天明三癸卯天本殿葺替            棟札 4

(一七九五)寛政七乙卯年 御除地四斗八升                            注「御除地:年貢免除特権」

(一七九六)寛政丙辰歳修理御宝殿            棟札 5拝殿初めて造立  注「一七九六年:寛政八年」

(一八〇九)文化六己巳歳修覆御宝殿          棟札 6

(一八一二)文化九壬申年二月廿三日 御紋付き御幕を戴く。

(一八三五)天保六乙未載修復御本殿          棟札 7

(一八三八)天保九戊戌葺替御舎殿            棟札 8

(一八五七)安政四丁巳年立替替鳥居          棟札 9

(一八五八)安政五戊午年葺替御舎殿          棟札10

(一八五八)安政五戊午年十一月九日 外敵退散祈願    棟札11

(一八七八)明治十一年屋根葺替本殿                  棟札12

(一八九一)明治二十四年回廊を造る                  棟札13

(一九〇三)明治卅六年本殿屋根葺替 拝殿鳥居修覆    棟札14

 

第2節 八幡社 

古くは若宮八幡社と称し、元蓮華寺裏の埴原城山の八幡平にあって北埴原が其の氏子であった。祭神は息長足姫命誉田別命玉依姫命である。

                    注「(おきながたらしひめのみこと・ほんだわけのみこと・たまよりひめのみこと)」

牧人たちは牧神としての八幡を祝い齊殿(いわいでん)として其の居館地近くに祀る風習があったと伝える。

御神体は木造と謂われている。

 

(一六四九)慶安二己丑年 神事免 一石 (埴原南分)       注「免:年貢率」

(一六七八)延宝六戊午年 社領八幡免 一石二斗九升六合(中田八間廿七間七畝六歩)仝六斗三升(木下上田九間十間三畝歩)二口〆一石九斗二升六合(北方田方埴原御検地野帳

                                               注「上田・中田:検見法、田の等級」

(一六八二)天和二壬戌年八幡宮中之宮地へ御引移(文化十三年百瀬正武書留)「八幡宮の御宝殿は元来(略)北の山に鎮座の古跡あり今は八幡平とよび候事明白なり。」

(一六八二)天和二壬戌年十五社の地内を訳け今の所へ御遷座(略)(現在社務所と宝蔵の間の通り、参道、石段、石垣、本殿跡と確認される。)

(一六八二)天和二壬戌年建立                棟札1

(一六九一)元禄四年鳥居立替

(一六九五)元禄八年 神事免五斗

(一七三三)享保十八癸丑年修復御本殿        棟札 2

(一七五九)宝暦九己巳歳修理本殿            棟札 3

   注「棟札の己巳は誤記、宝暦九年は己卯」

(一七七五)安永四乙未修覆御宝殿            棟札 4

(一七九〇)寛政二庚戌年拝殿を初めて建立    棟札 5

(一七九〇)寛政二庚戌歳修理本殿            棟札 6

(一七九五)寛政七年御除地北神主免二石一斗六升六合

八幡免一石九斗二升六合(北神主)                注「御除地:年貢免除特権」

(一七九六)寛政八年神事免(御成ヶ帳)五斗          注「御成ヶ帳:御成ヶ割帳、年貢割帳」

(一八〇五)文化二年(御成ヶ帳)北神主免八石三升九合四勺三才        注「才(抄):0.1勺」

(一八〇五)文化二乙巳歳葺替修理御本殿      棟札 7        注「乙巳は誤記、文化二年は乙丑」

(一八〇九)文化六年大燈篭初めて献納。

(一八一〇)文化七年御紋付御幕を戴く。

 

                    目録

               御紋付

                   一、御幕        一張

                    此度八幡宮に神納被致候

                    者也

                      文化七庚午七月十七日                        注「被致候(いたされそうろう)」

(一八一〇)文化七年午七月吉日当社舞屋御普請につき庚午より壬申迄夏秋勧化帳あり。                   

(一八一二)文化九年舞屋棟上げ(現在の社務所西眞正殿)      注「眞正殿:直会殿(なおらいでん)」

(一八一五)文化十二乙亥年九月初二日蟇目鳴弦鳴鏑大事

棟札 9

注「蟇目鳴弦鳴鏑大事(ひきめめいげんめいてき):蟇目鳴弦神事」「蟇目:鏑矢、鳴弦:矢を番えずに弦を鳴らす事、鳴鏑:鏑矢を鳴らす事。蟇:蟇蛙」

(一八一九)文政二己卯年修理御宝殿          棟札10

(一八一九)文政二年厄年祈祷料百匹          (十五社と仝様)注「匹、疋:通貨の単位、百匹が一貫。」

(一八四一)天保十二辛丑年葺替御宝殿        棟札11

(一八五一)嘉永四辛亥年奉立替御神門        棟札12

                    下馬下ろしの額桐の函に納めて本殿蔵す。下馬落としの信仰あり。

                                    注「寺社等の門前を馬を下りずに通ると馬が暴れて落馬すると謂う信仰。」

(一八五五)安政二乙卯年奉葺替拝殿神楽殿    棟札13

(一八六一)文久元年本殿葺替                棟札14

(一八六一)文久元年大燈篭張替

(一八六五)慶応元年大灯篭張替

(一八八八)明治廿一年拝殿及境内社屋根替

                                    稲荷社新築      棟札15

(一八八八)明治廿一年本殿葺替              棟札16

 

第3節 十五社 

現在の埴原神社の地にあった神社で、南埴原全部がその氏子であった。

                                                    注「南埴原とは今の埴原東、南、西の事」

祭神は諏訪明神とその御子たち十五神である。つまり、建御名方神八坂刀売神・彦神別命・出早雄命・意岐萩命・須波若彦命・守達神・池生神・蓼科神・片倉辺神・大県神・内県神・外県神・八杵命・高杜神の神十神、命五命、計十五神である。

ところが明治五年に編纂された長野県町村誌中山村記載の中に十五社の祭神は、天照大神誉田別尊天児屋根命建御名方神事代主命・句句廼馳命・軻遇突智命・殖安命・金山彦命・罔象女尊・天八降魂尊・天三降魂尊・天合魂尊・天八百日魂尊・天八十万之魂命の十五神とされている。

 

注「御子神(みこのかみ)建御名方神(たけみなかたのかみ)八坂刀売神(やさかとめのかみ)彦神別命(ひこかみわけのみこと)出早雄命・伊豆早雄命(いずはやおのみこと)意岐萩命(おきはぎのみこと)須波若彦命(すわわかひこのみこと)守達神(もりたつのかみ)池生神(いけおのかみ)蓼科神(たてしなのかみ)片倉辺神(かたくらべのかみ)大県神(おおあがたのかみ)内県神(うちあがたのかみ)外県神(そとあがたのかみ)八杵命(やきねのみこと)高杜神(たかもりのかみ)」

注「誉田別尊(ほむたわけのみこと)天児屋根命(あめのこやねのみこと)事代主命(ことしろぬしのみこと)句句廼馳命(くくのちのみこと)軻遇突智命(かぐつちのみこと)殖安命(はにやすのみこと)金山彦命(かなやまひこのみこと)罔象女尊(みつはのめのみこと)天八降魂尊(あめのやくだりたまのみこと)天三降魂尊(あめのみくだりたまのみこと)天合魂尊(あめのむすびたまのみこと)天八百日魂尊(あめのやおひたまのみこと)天八十万之魂命(あめのやおろずたまのみこと)」

 

ここに挙げた十五神が二つある事になるが、前者は小松昌之氏の調査のものであり、後者は明治初年に中山村役場が報告したものである。どちらもその根拠がはっきりしない。少し余論になるが、十五社と云う神社は、諏訪に十一社、南安曇に一社、下伊那に一社ある。そしてその祭神は可なり違っている。諏訪では建御名方の御子神の十三神と建御名方・八坂刀売神であるところから、小松昌之氏の調査と一致するが、御子神十三神は神社によって違っている。中には十五神とのみ云って明かでない社もある。

南安曇梓の一社と下伊那神原の一社はそれぞれ祭神が異なり建御名方神は含まれていない。

諏訪では神道政策として建御名方神の氏子としてどの十五社にも含まれているが、諏訪以外は十五社と云い十五神は氏子の願いによって、それぞれの神を集めた社であると云うが多分そうであろう。

埴原の十五社はどちらにしても建御名方の神を含んだ祭神である処から、諏訪の影響を多かれ少なかれ受けているとみられる。

 

御神体

衣冠束帯の座像(仏体)十四体、丈三寸位より一尺位、御座像下銘嘉吉戌年七月日弥久とあるものあり。外に幣一体がある。        注「嘉吉戌年:嘉吉二壬戌年(一四四二年)」「弥久:長い時間を過ごす事」

 

宝物        1、御神鏡      一面

            2、刀          二振

 

「祭式は前八幡社と同断として八幡社は祭日八月十五日、往古埴原牧の毎歳八月十五日、勅使駒牽ありし残風にて今に至る迄、年々神馬七疋づつ出し、駒牽神事祭式を行う」とある。

なお十五神明神と謂うが、明神は名神の転であるとするのが普通な考え方である。名神は「延喜式」に定められた社格で、国家の大事の際などの名神祭にあずかる神々で、名神大社もしくは畧して名神大ともいった。

名神二人五座は大社もしくは年代も古く由緒も正しく、崇敬の顕著な神々の社を選んだ数であると云う。

 

(一五四八)天文十七年      神主小松掃部□武田信玄公より朱印状をうける。    注「□:解読不能

(一五九〇)天正十八年      御検地朱印高    二石大明神領

(一六〇一)慶長六年                       二石大明神領

(一六二五)寛永二年       十五社炎上、二昼夜消し止められず、社木も大半焼失、神殿宝器古書類は焼けたけれども、幸御内宝殿御神体はその難を避くるを得たり。

(一六二八)寛永五戌辰年    造立御宝殿      棟札 1

(一六四一)寛永十八年辛巳年検地帳五石七斗六合七勺(南部神主免)

(一六四一)寛永十八辛巳年 巳検地帳二石二斗八升大明神免(上田九畝十八歩)

(一六四九)慶安二年        埴原南分一石神事免

(一六六六)寛文六年修覆

(一六七八)延宝六戊午年    一石七斗九升四合明神免(上田廿五間十一間九畝六歩)

諏訪領主頼陰公より神道長卜部兼敬筆(諏訪大明神 神道長卜部兼敬)の奉額寄進あり。

注「額筆者卜部兼敬は享保十六年十二月十七日歿七十九才」

注「卜部兼敬:吉田兼敬 江戸前中期の神道家」「享保十六年:一七三一年」

(一六九一)元禄四年        十五社・八幡宮鳥居立替

(一六九一)元禄四辛未年    諏訪明神と改名す。     

(一六九一)元禄四年辛未造立                棟札 2       

(一六九二)元禄五年       埴原南分御成り徝帳 五斗神事免

                                                    注「御成り徝帳:御成ヶ割帳と思われる。」

(一七一二)正徳二壬辰年修覆御社            棟札 3

(一七二〇)享保五庚子年修復後本殿          棟札 4

(一七三七)元文二丁巳年修覆御宝殿          棟札 5

(一七四九)寛延二年鳥居立替

(一七五〇)寛延三庚午歳修理御神殿          棟札 6

(一七五九)宝暦九年修覆

(一七六六)明和三丙戌歳修覆宝殿            棟札 7

(一七七五)安永四年        いなご退治の御祈祷あり。

(一七七七)安永六丁酉年    再興            棟札 8

(一七七七)安永六年に十五社に復帰す。元禄四年に諏訪明神と改名したが、神意にそわず、たヽりあり、よって元の十五社大明神に再び改む。

(一七八二)天明二年南北境の儀北の役人長百姓立会致申候

八幡宮之鳥居南之道路上、上り口より東の道に別れ中には大石を立て双方和談にて極まり候

尤境立仕方両社の壁より壁へ縄を張り二つ折りの所なり。

(一七八二)天明二年十五社の社地古木売払ふ。代金八両一分。玉垣拝殿造立の費に允つ。

(一七八三)天明三年大凶作につき普請延引。

(一七八四)天明四年十二月拝殿普請に取かヽる。

(一七八五)天明五年七月四日完成棟札天井の上に打付ける。

神主小松掃部大工諏訪大和村岩波瀬左衛門

(一七八五)天明五年八月吉日修理本殿        棟札 9

(一七八六)天明六年暮れに至り拝殿修覆料材木千石水尾口にて求む払代七両余。

(一七九五)寛政七年御除地一石七斗九升四合明神免

                       三石五斗四升四合南神主免

(一七九六)寛政八年(御成ヶ帳)五斗 神事免                注「御成ヶ帳:御成ヶ割帳、年貢割帳」

(一八〇八)文化五戊辰年春舞殿建替

(一八〇九)文化六己巳年二月吉日当社左右彩色寄付募集あり。

(一八一〇)文化七年御紋付御幕を戴く。(八幡社に同じ)

(一八一三)文化十年造替御宝殿              棟札10 本殿拝殿修覆

            十五社燈明免(小松近永約定証)

                    字宮ノ上畑3畝十五歩

                    字宮南二畝十九歩

                    字宮南原野三畝二十三歩五厘

            雨乞料諏訪公寄進

(一八一四)文化十一戌年六月十二日より二夜三日雨乞

            〆一両一分二朱六匁八分九厘五毛

(一八一九)文政二己卯年二月殿様厄年祈祷料

                    金百匹  北神主                          注「匹、疋:通貨の単位、百匹が一貫。」

                    金百匹  南神主

            右之通御祈祷料被遣                              注「被遣:つかわされ」

             則八幡宮御神前

              十五社御神前

            両所にて二夜三日御祈祷相済廿一日に御札納南神主。

            津守御役所へ参る。

(一八三八)天保九戊戌年葺替御舎殿          棟札11

(一八五三)嘉永六癸丑建替鳥居              棟札12

(一八五九)安政六年蟇目鳴弦鳴鏑大事        棟札13

                    注「蟇目鳴弦鳴鏑:蟇目鳴弦神事」「鳴鏑:鏑矢を鳴らす神事」「蟇:蟇蛙」

 

第4節 三社の明治時代記録     

明治 三年  八幡社大燈篭張替

明治十一年  鎮守社葺替

明治十二年  七月十八日虫祭り。                              注「虫祭り:害虫追い払い神事」

明治十三年  四月二十日八幡社拝殿(本社)舞屋葺替

明治十三年  九月十六日当社祭りは小松近永殿五月十四日限り廃職となり中山村豊丘村合わせて千戸以上に神官一人と云うことになり瀬黒神官来たりて祭典を行う。    注「豊丘村:現松本市寿豊丘」

明治十六年  十五社正殿葺替 御神体八幡宮へ預ける。

明治十九年  十月十七日 氏神祭礼御神馬南北にて十七頭出る。

明治二十年  七月廿四日小松只市殿拝職につき装束を作り有志より寄附金募集。

明治二十年  八月氏神例祭細則規約を作り、以後これにより例祭を行う。

明治廿一年  十二月御舎殿葺替 神事規則により拝殿より本殿まで欄干橋の回廊を造る。(八幡社)

明治廿三年  十二月廿五日本殿葺替、回廊新築(十五社)

九月十五日例祭を行う。十四日夜北埴原区内中洞日向中村田中の若者にて青木舟を作り、数十ヶの燈篭をつけて押し出す。鳥内にても小さな四角なものを作りて同じく持ち出す。青木舟では三味線・太鼓・笛に手拍子等で囃し、南区も内大門引揚げ、八幡社の前迠行き暫く囃し立てた後引き返す。

埴原立て始まってよりこの方比類なき余興なりと男女老若悉く見物に出て小学校の庭、神社の境内は人々にて山をなす。

明治廿四年  鎮守社回廊新築 八幡社七月十日虫除け祭執行。

明治廿七年  九月八日神職小松只市氏神職改名祠掌を社掌とす。祭服も改正されて新式の服装を氏子の寄付にて新調す。

明治卅四年  三社祭典をこの年より四月十五六日と改める。

明治卅六年  八幡社四月十二日鳥居屋根修理大門を造る。

鎮守社十二月十五日本殿拝殿鳥居葺替。

明治卅六年  四月宮の前へ制札を立てる規則ができ、八幡社十五社共同時に同様の石積みにて作る。

 

一、車馬を乗り入る事

一、魚鳥を捕ふる事                                      注「捕ふる:とらふる」

一、竹木を伐る事

右條々於境内令禁止者也

 明治卅六年四月

             長野県

 

明治卅七年  八幡社大燈篭張替

明治卅七年  三社八月十四・五・六日執行二夜三日蟇目鳴弦鳴鏑大事・征露軍全勝兵士健康祈祷神璽社掌小松只市藤原近晴謹行

注「蟇目鳴弦鳴鏑(ひきめめいげんめいてき):蟇目鳴弦神事」「鳴鏑:鏑矢を鳴らす神事」「蟇:蟇蛙」「鏑矢:かぶらや」

明治卅八年  八幡社四月十四日大燈篭の枠を石に改める。

明治四十二年四月十五日鎮守社・八幡社・十五社の三社合併埴原神社となる。

 

第2章 埴原神社の神事

第1節 駒引

第1項

神社に神馬を奉納する行事は古くより馳の神事として伝わる。埴原神社にて例大祭の折りに、古来「お振竜(おふりゅう)」と呼んで行われている。

盛装した馬六頭の他に希望者の寄進馬が加わって神事が始まる。神主のお祓いを受けた神馬が境内の外側を三回廻る。最後に裸馬になって内へ入る。これを「お振竜が渡った」といって参詣人は各自自分の組から出た馬について帰る。

以上は駒引の神事の実際であるが、その基本は明治二十年八月三社氏子惣代によって定められた規約によって行われているが、次にその規約を掲げる。

 

三社例祭細則規約

第一條  総て神事は旧例により執行するものなれども、氏神祭礼に限り本年より改めて順序正しくするものとす。

第二條  従前は神職二名ありて八幡社の役馬二頭及寄進馬は何頭たりとも併列して一頭毎に神官の祓を受け南北の二名主先導して北隅に扣へ居り、警護者及幟等併列して三回三次に鎮守社に及び尚三回にて終わるを例とす。                                    注「扣へ:ひかへ」

維新以後神官一人となり啻に旧例により併列するに止まり別に定めの順序がなく往々神事の錯乱に至らんとす。為に爾後第三條の通り執行す。          注「啻に:ただに」

第三條  本年より改革して南北隔年神官の出張する社前へ

第一 八幡社の役馬二頭並べ

第二 十五社

第三 鎮守社の役馬を併列し

順次一頭毎に祓を受け次に寄進馬は何頭たりとも八幡より役馬通り併列し祓を受け役馬順列の通り整列するものとす。

第四條  戸長筆生出張し神馬の先導及後衛を為すものとす。

                                     注「筆生(ひっせい):筆写を職業とする者」

第五條  伍長惣代と南北氏子惣代は八幡社十五社鎮守社の順に並び幟も前段の通り整列するものとする。

                                     注「伍長:五人組の頭」

                                                                             a.

付則

第一條  伍長惣代は予て神馬の触当をなし置き当日出張して神事一切に注意すべし。

                                                                    注「予て(かねて)」

第二條  氏子惣代は従前仕来り通り幟燈篭供物社頭体裁神官の執行方寄進神馬の管掌神酒の取扱ひに至る迄その他總べて前後は勿論当日出張して神官及伍長惣代と協議し差し支えなき様注意すべし。

第三條  伍長は当日出張して組織を管掌し従前の通り取扱ふものとす。

第四條  伍長惣代氏子惣代及伍長は止むを得ざる事故にて出張し難き者はその組内又は隣組同役の者に委託して神事差し支えなき様取扱ふべし。但し出張なき者は事故を書面にて伍長惣代に届け出づべし。

第五條  神事の順序整列する時は神官並に伍長惣代氏子惣代の内より戸長役場へ出張し吏員に届け出づべし。

 

                                                    八幡社氏子惣代

                                                    十五社氏子惣代

                                                    鎮守社氏子惣代

 明治廿年八月

右規約認定す                東筑摩郡豊丘村外二ヶ村戸長      飯村虎雄

 

第2項 駒引神事の由来     

往古埴原の牧産の馬を朝廷に納めるのは毎歳八月十五日で、この日紫宸殿の前庭に親王大臣公卿が先づ参殿して献盃の後「神馬の解文」を天皇の御座所に参進して奏上する。然る後天皇が式場にお出ましになり式が始まる。

左右馬寮の騎士が御馬を牽いて、日華門を入り御庭を三周した頃、騎士は命によりその馬に乗り七八周する。騎士は馬から降りてから、馬を天皇の前に列立せしめ、大臣が参進して天皇に此の牧の名を奏上する。かくして牧馬は日華門から順次退出し、天皇はお帰りになる。式は荘厳で然も勇壮なものであった様である。

式後恒例としてそれ等の馬の若干を天皇から親王公卿等に下賜される事はあったが他は左右馬寮で飼育された。

この八月十五日の紫宸殿前の行事の故事にならって、埴原三社の駒引の神事は行われるようになった云う。

 

第3項 神馬の装束

神馬は毎年新しく麦桿を以て鞍を作り、白絹一匹を使って之れに飾り付け、鞍の上には幣束を立て、神官の修祓を受けた後、手綱凜々しく引いて神社境内を三周する。氏子惣代が先頭に立ち、神幟を持った青年達之れに続きて疾走する様実に壮観にして美事である。この時の馬の装束用具は次の如くである。

ダテタヅナ      鼻モ    胸鈴    首鈴    尻鈴    腹当て  長さんどん(長日よけ)

尻綱    解腹綱                                                 

注「白絹一匹:白絹二反」「匹:絹布の単位、絹布二反」「絹生地二反と馬一頭が等価との説もある。」

第2節 湯立て神楽・新年祭の折の年占い

湯の沸く間鈴を振って神楽を舞い、その煮えたぎる湯をお参りする人々に振りかけてやれば凡てのけがれが清まるというもの。この舞のことを鈴の舞という。宵祭後、本祭後、神楽殿に於て神官が行う。

「新辞苑」によれば、禊の一種、神前で湯を沸し、巫女がその熱湯に笹の葉を浸して、自分の身にふりかけたり、参詣人にふりかけたりするもの。湯の音で占もする。古代の盟神探湯と関係があろうと云う。

平凡社の百科事典」によると、熱湯をもってする神事の一種。今では清めのために行う所が多いが、地方によっては、これにより一種の神がかり状態になり、託宣を聞こうとする風もあり、それが芸能化されて湯立神楽として伝承されている所もある。湯立て神楽として著名なのは長野県下伊那郡南信濃村・愛知県北設楽群の花祭、九州の佐伯の神楽などであるが、方法はいずれも大釜で湯を沸かし、ササを持って舞ながら、その湯を自分はもとより、周囲の人々にもふりそそぐ。以前はこの方法のくりかえしによって一種の神がかり状態になり、託宣を発したものらしく、今でもそう云う古風な湯立ての型式を残している所がある。しかし大部分の地方では、もはや神がかりはすたれ、舞を略した単なる清めの行事に終わっている。湯立ての記事は「貞観式」をはじめ平安時代以来の文献にしばしばあらわれ、上代盟神探湯(くがたち)とも関係があるが、周囲民族の伝承との関連は、いまだ明かでない。湯立て神楽は極めて古い神楽で長野県の南部に残るのみ、それが埴原神社に残るのは意義深い。

 

第3節 長持ちかつぎ

遠く鎌倉時代より室町時代にかけて、諏訪社の祭りに埴原あたりの地頭が、村の役人達を引き連れて行って、祭りの頭役を奉仕した、その際役人達の装束その他一切のものを入れた長持を担いで諏訪まで出かけたが、この時の名残が今の長持ち担ぎと云われている。埴原青年会が行う。

檜か杉の立派な材質の樹を使って、全長三間余りの竿で、その中央辺りにおかめの面をたて、幣束を飾った長持ちをつけ、前方を二人、後を一人で担ぎ、行進中長持ちと竿とがきしんで、ぎちぎちと音を立てる。この音に合わせて、手振り足取りおかしく、長持唄を歌い乍ら、進むわざで、唄は実に優雅で古式ゆかしく、行列は又却々(なかなか)威勢のよいものである。

そして歌詞は縁起の良いものばかりである。猶この長持唄の終わりには甚句を歌うのがつきものになっている。この長持唄は伊那を始め信州各地で歌われているものと同系である。

 

第4節 浦安の舞

この舞は皇紀二千六百年を紀念して制定され、平和を祈願する為に全国各神社に奉納される事になった。埴原地区からも数名の女子が出席して講習を受け、その年から埴原神社でも行われる事になった。「天地の(あめつちの)神にぞ祈る、朝凪の海の如くに波たたぬ世」という詞に合わせて、扇舞と劔舞とを舞うもので、戦後劔舞と云うのは穏やかでないとのそのすじからの御達しで、鈴の舞と改めた。その後三十年近くなり、時世の移り変わりと共に取り止める所が多くなり、またその舞も口から口へと伝えられていくので元の形が大分崩れてきたと謂われている。            「皇紀二千六百年:1940年(昭和15年)」

 

第3章 埴原神社の三峰祭

鍬形神社(くわがた)、科野権現(しなの)、鳴雷神(なるかみ)の三神社の祭りを三峰祭と謂い、五月に祭りを行っている。

 

第1節 鍬形神社

中山の峰に祀られてあって、そこに元は大きな松樹が峰高く聳えていた。この松については南中島より畑中辺り迄伝えられていた良く当たる天気予報があった。それは「お鍬様の松に霧がかヽれば必ず雨が降る。但し松本方面から上がる霧の場合は晴れる。」と謂うのである。現在は元古墳と云われた円丘上に鍬形神社という石碑が建っている。この鍬形神社に関する古老の記録を探した所、次の如きものであった。

イ) 天明三年(一七八三)は大凶作、然も生憎な事にその年浅間山大噴火で灰が至る所に降り積もって、作物に大被害を與た。それで翌天明四年に「之れから後は決してかヽる事なき様に。」と伊勢の磯部の大神宮をうつし祀った。

其の時は村の庄屋組頭の先達で中山の頂上へ祀ったが、埴原中にこれ迠(まで)にない大賑やかな祭りであった。祠を建てその後鳥居を造り松を植ゑた。

ロ) 文化二年三月(一八〇五)中山の峰に鍬形神社を祀った。

豊受姫命(とようけひめのみこと)の御分霊なり。この時は牛伏寺川原より中山迠、十五才以前の少女達が、赤だすきに白手拭いをそろへ、男子は鉢巻に白の菅笠と云う出で立ち、此の他に四五人の青年打ち揃い、田植え唄三おり七ふし(之れは日本古風のもの。おりふし、七節)を歌い、藳のミゴ(わらの茎の部分)を短く切ったものを手に持っち、神輿通御の際は、稲を植える行事の祝として祀った。

この二つの記録に年代の相違が僅か(二十一年)あるけれども、仲々大きなお祭りをして遷座した事が窺われるし、要するに、農作物の神様を祀り五穀豊穣を心から祈ったと云うことは明らかである。

下伊那郡旦開村(売木村および阿南町大字和合)のおくわ様は享保二年(一七一七)に百姓の神様の豊受大神を迎えて、御神体として農家の第一の道具鍬を祀ったと云われている。埴原の隣の部落白川にはおこわ様と云って磯部の大神宮をを勧請した社があるが、これはお鍬様である。農家の道具の鋤・鍬を祀り、豊作を祈るは全国に数多くある。

 

第2節 科野権現(或いは科野木権現)

高遠山(標高一三一七m)の峰に祀られ、祭神は日本武尊と伝えられる。昔例祭は十一月であった。

最近一志茂樹博士は科野木権現に就いて次の如く謂われている。

この神は民族的な土神とも見られるが、これは篠の木権現とみたい。この神は尾張の北の国ざかい近くで、美濃の多治見に近い所に祀られて居り、延喜神祇式の尾張春日部郡の内々(内津、うつつ)神社に当たるかと考えられる。

うつヽの宮、うつヽの清水の信仰は信濃にも古くから古道の沿道で行われている。

      注「延喜神祇式:延喜式五十巻の始めの十巻、其の九・十巻が延喜神名帳(官社一覧表)」

猶、一志博士は古く鳥内地籍に信濃牧監庁のあった頃(奈良末期頃から平安中期頃迠)拝原はこの科の木権現の遙拝所のあった所であると説かれてる。(昭和三九年発行鳥内の牧監庁跡調査概報)

又別に中山に残っている、古文書によれば、寛政八年(一七九六)十月科野木権現の鳥居垣根等の修理に多数の人が沢山の金を出し合って完成しているが、その際は假のお宮まで造って、そこへ一時御神体遷座しておいて工事を進めたとの記事がある。近くに建物の址があるが、これは保福寺の堂宇のあった所で堂平と云っている。

注「現在、現地には科野大神と記された石碑があるが、神号は権現と考えるのが妥当。権現は仏が仮の姿として現れた神号である事から、明治政府の政策で権現の神号を一時禁止し大神の呼称に変更させる事が有ったが、其れによって大神と記されたと推量される。」

 

第3節 鳴雷神(なるかみ)

雷神を祀って雷除けを祈るもので、ぼうずと云う山に祀られている。例祭は昔から五月に行う。

このぼうずと云うのは、元はぼうじ(傍示)で、之れは昔荘園所領の境界を定めた時に四堂の四隅にそのしるしの為に建てた棒杭のことで、これが転じて一般の標識標柱の事も傍示と呼ぶようになったと云う。                                                            注「四堂:四方、東西南北」

鳴雷神は鉢伏の峰に祀って奥社になっている。ここがその参道の登り口に当たるので、ここに登り口の案内の標柱を建てたのが山の名に残ったものと云う。このぼうじ(ぼうず)へ里宮として鳴雷神を祀ったのは、親しく拝礼出来るようにしたものである。

猶、鳴雷神を一時他の鍬形科野木二社と共に埴原神社の境内社として合祀したのであるが、大正年間埴原神社の社殿立木、またその近隣へしばしば落雷して被害が甚大であった。氏子一同は神意に沿わざる結果と恐懼し神々にそれぞれ元の場所にお帰り願い、埴原神社へは分祀申し上げた。         

                          注「恐懼(きょうく):おそれかしこまること」

                          注「鳴雷神の現地にも科野木権現と同様に鳴雷大神と記されている。」

 

第4章 三社の境内社(明治四十二年合併前)

 

      社名            祭神            備考

鎮守社

                                      飯縄社          保食神          (うけもちのかみ)明治四十一年十月十六日移転

                        注「五穀を司る神・食物の神」

                                      秋葉社          軻遇突智神      (かぐつちのかみ)遠江国周智郡大居村大登山縣社

                注「火の神:火の幸を恵み、悪火を鎮める。」

十五社

      八坂神社        素戔嗚命        (すさのおのみこと)

      三輪神社        大己貴命        (おおなむちのみこと)   注「大国主命

                                                              小彦名命        (すくなびこなのみこと)

注「医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造・石等の神」

      胞肩社          思姫命          (おもいひめのみこと)   注「胞肩社(むなかた):宗像神社」

      (疱瘡神社      湍津姫命)       (たぎつひめのみこと)   注「宗像三女神の一柱」

八幡社

                                      豊受社          保食神          (うけもちのかみ)明治四十一年十月十六日移転

注「五穀を司る神・食物の神」

                                      天満宮          菅原道真

                                      胸肩社          思姫命湍津姫命                         

 

第5章 埴原神社の末社(明治四十二年合併後)

昭和四十二年九月二十六日調査に拠る。社祠向かって右より順に。

 

      社名            祭神            備考

                                        胞肩社                思姫命          (むなかた、おもいひめのみこと)一般には水難除けの神とされているが、埴原地区の信仰は不明。また宗像三神が祭神と云う社が多い。

注「胞肩社:宗像神社・胸肩神社」

                                    豊受社          保食神            (うけもちのかみ)農作物の神、豊作祈願の信仰、主食の神

                                                                                      注「五穀を司る神・食物の神」

                                      天満宮          菅原道眞        学芸の神、火・水・雷除けの信仰あり。

      鳴雷社          雷神            雨乞の神

                                      金山社          金山彦神        (かなやまひこのかみ)

                                                      金山姫命        (かなやまひめのみこと)鉱山の神、鍛冶屋の神

                                      三峯神社        大口真神        (おおくちにまがみ)     注「狼を神格化したもの。」

                                                      伊弉册尊        (いざなみのみこと)

                                                      伊弉諾尊        (いざなぎのみこと)

                                                      日本武尊               

                                                                      火防盗賊除け神          注「諸難除け:火盗病獣害」

                                      秋葉神社        軻遇突智神      (かぐつちのかみ)火除けの神       

        注「火の神:火の幸を恵み、悪火を鎮める。」

                                      八坂神社        素戔嗚命        (すさのおのみこと)疫病除けの神 祇園社に同じで、牛頭天王(ごずてんのう)と同一信仰

                                      御嶽神社        国常立尊        (くにのとこたちのかみ)

                                                      大己貴命        (おおなむちのみこと)   注「大国主命(おおくにぬしのみこと)」

                                                      少彦名命        (すくなびこなのみこと)

                                                                      山嶽信仰、商売繁昌家内安全

                                      三輪神社        大己貴命        (おおなむちのみこと)   注「大国主命

                                                      小彦名命        (すくなびこなのみこと)

                                                      大物主命        (おおものぬしのみこと)国作り、土地作り、治水の神 

注「医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造・石の神等」

                                      鍬形神社        豊受大神        (とようけおおかみ)農作物の神、豊作祈願の信仰

                                      山神社          大山祇神        (おおやまづみのかみ)

                                                                      山村の神、杣木地屋(そまきじや)、たたら師、猟師の神

                                      蚕玉社          青??玉神        (こだま)養蚕の神

                                      妙義神社        木花開耶姫      (このはなのさくやひめ)

                                                      大山祇命        (おおやまづみのみこと)

                                                                      雨乞の神

                                      飯縄神社        保食神          (うけもちのかみかみ)水田、稻、穀物の豊作祈願 

         注「五穀を司る神・食物の神、農作物の神、豊作祈願の信仰、主食の神」

                                      白山神社        伊弉諾命        (いざなぎのみこと)

                                                      天照大神

                                                      菊理媛命        (くくりひめのみこと)

                 山嶽信仰、加賀の白山を神体とする。農耕の守護、武芸の神、先祖の霊

                                                                              注「菊理媛命:白山比咩命(しらやまひめのみこと)」

                                      八王子神社      素戔嗚尊五男三女神(すさのおのみこと)

 

                注「正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)」

                 「天之菩卑能命(あめのほひのみこと)」        「天津日子根命(あまつひこねのみこと)」

                 「活津日子根命(いくつひこねのみこと)」「熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)」

                 「多紀理毘売命(たきりびめのみこと)」        「市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)」

                 「多岐都比売命(たぎつひめのみこと)」

 

      正一位稻荷社    宇賀御魂命      (うかのみたまのみこと)作物の神、穀物を司る神

      六攸神社        伊弉諾尊        (いざなぎのみこと)

                      伊弉冉尊        (いざなみのみこと)

                      素戔嗚尊        (すさのおのみこと)

                                      水の神、・熊野権現に同じ。      注「攸:所、處」

      御塚屋正一位稻荷社

                      宇賀御魂命      (うかのみたまのみこと)豊年満作を祈願

                                                              注「御塚:稲荷社に祀られる諸神」

                                      社宮司社        地神または地主神保食神

                                                                      神宮司社とも書き、土地神として齊殿に祀られる。水稻の神信仰あり。                              注「社宮司(しゃぐじ)」

                                      稻荷社          宇賀御魂命      作物の神

                                      水神様          水波能売命      (みずはめのみこと)飲料水の神、井戸の神

                                                              注「弥都波能売神(みづはのめのかみ)罔象能売神(みつはのめのかみ)

                                                                罔象女神(みつはのめのかみ)」

外に

                                      石尊様          大山祇命        (おおやまづみのみこと)雨乞の神

                                                                                      注「大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)」

                                      御太子様        聖徳太子        建築工芸従事者の守護神

                                      半僧坊様        遠州引佐郡奥山村臨済宗奥山派大出山方広寺守護神天狗、両部神道

                                                                      注「奥山半僧坊大権現(おくやまはんそうぼうだいごんげん)」

                                      御天狗様        半僧坊様に同じ。

                                      津島牛津天王    祇園精舎の守護神、荒々しい神、素盞嗚尊とも云われる。疫病除けの神     

                                                        注「津島牛頭天王津島神社

以上、小松昌之氏の調査のものに就いて補ったが、猶不明のものがある。神社名称が同じなら、その祭神は大体同じであるが、中には全く違った祭神もある。猶信仰についても同様で、可成りの習合が行われていて埴原神社の境内社が、どの様な信仰の対象となっているかは、記録もなければ調査もされていないので判らない。今後、氏子の方々に正して戴きたい。

 

第6章 埴原神社の文化財

第1節 本殿

明治四十二年の三社合併の際に、八幡社十五社の本殿を併せて改造した。現在正面から見ては判らないが、背後に廻って見れば、その痕跡が柱と壁面に見られる。流れ造りであるが、三社合併であるので、その間口が三社分ある。他所の神社の本殿よりその規模が大きい。

三社の頃は北埴原と南埴原が別々の氏子であって、互いにその氏神の社殿の壮観を競い合った。特に十五社と八幡社は三十米位しか離れて居らずに並んでいたので、本殿、拝殿、神楽殿と同じ様な建築をして競った。その名残が今日まで残っているので、他地区の人々は山の中の僻村に立派な規模の社殿を見て驚く。埴原地区の人々はこの立派な社殿を誇りとしてよいし、祖先のこの並々ならぬ心意気に感謝すべきである。

十五社の本殿は安永四年(一七七五年)に造営したものではないかと思う。

 

第2節 拝殿

これは元の十五社の拝殿であるが、入母屋の権現造りで欅材を使用した立派なものである。

天明五年(一七八五年)に拝殿を新築したと記録されているが、拝殿正面入り口、左柱の木臍に文久二年(一八六二年)と云う年号が書かれている。併し棟札その他の記録に文久二年の記録はない。多分その記録を落としたのではあるまいか。今後の調査に俟つ。                            注「俟つ(まつ)」

 

第3節 社務所

立派な社務所で驚かされるが、これは元の八幡社の拝殿である。記録によれと建立は寛政二年(一七九〇年)である。總欅造りで荘重な出来栄えである。十五社仝様、入母屋の権現造りであった様であるが、三社合併でこれを社務所として改造し、その向きも元西向きだったものを南向きとし、その位置も八米ばかり南へ移動させた。

残念な事は、この社務所の一隅に囲炉裏があって、たき火をした為に燻ぶれている事である。

 

第4節 神楽殿直会殿・奉幣使殿

楽殿直会殿は元三社の頃、十五社と八幡社の神楽殿で両社別々に神楽が奉納された。現在は十五社の神楽殿が移築され、本殿と拝殿との間にあっておかしな事になっている。此は神意に反するのではあるまいか。

昔は表記三殿が拝殿の前に併列して立派な姿であった。

 

第5節 其の他

イ)武田信玄よりの拝原禰宜への感状           注「感状:戦功を賞して主君から与えられる文書」

天文十七年(一五四八年)神主小松掃部への朱印状である。三社の往古より如何に重要な社であったかを物語る大切な記録である。

ロ)三社棟札

四十数枚の棟札は三社の歴史を物語る記録である。古いものは寛永年間からで、此だけ多くの棟札が保存されている社は滅多にないと云う。棟札の各々についてはこの後に記述。(第7章参照)

ハ)左大臣右大臣木彫彩色像 寄せ木造り一対 天明六年亥八月吉日(一七八六年)

                                            注「亥は疑問、天明六年は丙午」

ニ)左大臣右大臣木彫彩色像 寄せ木造り一対 寛政三(一七九一)辛亥年新刻下里治左衛門次矩代 同代文化年中彩色直シ嘉永戌年彩色直シ下里惣右衛門次好代

注「嘉永戌年:多分嘉永戌年だろう、嘉永年間の戌年嘉永三年(一八五〇年)庚戌歳のみである。 」

ホ)右大臣左大臣木額四枚 奉掛御神前 宝暦四年(一七五四年)甲戌年八月吉日 施主 百瀬忠四郎

                                                    注「奉褂(ほうかい):寺社に奉納されたもの。」

ヘ)宇治川先陣争い木額 一枚 奉懸御神前 千石為次郎

ト)松に鶴之図繪馬 一枚 願主丑年男 七十二才翁翠渕

チ)牽馬神事図木額 一枚 文政二年(一八一九年)卯八月 奉懸御神前 千石氏酉の女

リ)鬼面木彫 一対 安政五 (一八五八年)戊午年十一月七日 仙石牛鹿

ヌ)目録 御紋付 一 御幕 一張 文化七 (一八一〇年)庚午歳七月十七日 大間十郎治衛門 埴原村名主半左衛門 十五社

ル)三社祭神名木額 三枚 神道長卜部兼敬

ヲ)木彫こま犬 三対 

ワ)鉄剣額丑年女 一枚

カ)戦利品奉納額 明治四十年寺内正毅

ヨ)献燈荷奉納木額明治二十九年

タ)宝蔵内には破損した繪馬、幟、其の他の重要参考品と覚しきもの、多数あれども整理調査に及んでいない。

 

第7章 埴原神社棟札一覧表                     

第1節 鎮守社

                       宝永二年

宝永 二(一七〇九)奉建立鎮守大明神御宝前諸願成就所

                       乙酉四月吉日

                                            大工   矢島勝右エ門

                                                 □□

                                            同断   青木金右衛門

                                            同〃     作右衛門

                                            同大工     治兵衛

            (裏面)大小之氏子諸願成就守護

享保十八(一七三三)奉修覆鎮守大明神御宝殿諸願成就所

                                            村中   村中之産子敬白

                                            神主   小松近江守吉次

                                            大工   百瀬 仙右エ門

                                                 諏訪之孫右エ門

                                                百瀬  喜四郎

            (裏面)享保十八癸丑歳二月吉曜日                        注「吉曜:吉日」

明和 三(一七六六)奉造鎮守大明神御宝殿諸願成就所

                                            神主小松近江守藤原迩次

                             注「迩、邇:じ、に、ちかい、みち」

名主    仙石 忠右エ門

        洞澤  源之亟

            (裏面)維時明和三丙戌載六月十一日                      注「維(これ):強めの助字」

天明 三(一七八三)奉葺替鎮守大明神御宝殿棟札

                                            神主    小松掃部正近房

                                                    大小産子

            (裏面)干時天明二癸卯天四月十日        注「天明三年であろう。天明二年は壬寅歳」

                    注「干時:干は漢文で置き字、意味は考えなくて良い。(ときにてんめいにねん、、、)」

寛政 八(一七九六)奉修理鎮守大明神御宝殿

                                            神主    小松掃部正近房

                                                    大小産子

            (裏面)干時寛政八丙辰歳仲秋十四日                      注「仲秋:旧暦八月」

文化 六(一八〇九)奉修覆鎮守大明神御宝殿

                                            神主    小松掃部正

                                                    大小産子

            (裏面)干時文化六歳己巳二月廿九日

天保 六(一八三五)奉修理鎮守大明神本殿

                                                    大小産子

                                            神主    小松津守藤原近久謹行

            (裏面)干時天保六乙未載八月十二日

天保 九(一八三八)奉葺替鎮守大明神御舎殿

                                            神主    小松掃部正近永

                                                    大小産子中

            (裏面)維時天保九戊戌年水無月二十四日

                    注「維時:維は次の語を強調する文字。(これときてんぽ、、、)水無月:旧暦六月」

安政 四(一八五七)奉立替鳥居玅業祭社頭康栄郷内安穏攸      注「攸(ところ)玅業(みょうぎょう)」

                                            神主    小松掃部正藤原近永謹行

            (裏面)安政四丁巳四月初三日修行                                                      

安政 五(一八五八)奉葺替鎮守大明神御舎殿

                                            神主    小松掃部正藤原近永代

                                                    大小産子 敬白         

            (裏面)干旹安政五戊午年十一月九日遷宮                  注「旹:時」

                     正遷宮

安政 五(一八五八)三元十八神道陰陽行事社頭康栄祈攸

                                            小松掃部正藤原近永謹行

            (裏面)安政五戊午年十一月九日ヨリ十日後祭加行

明治十一年(一八七八)正遷宮奉葺替鎮守大神

                                            詞宮    林 吉金

                                            詞掌    小松近永

            (裏面)明治十一年十二月十四日氏子中

明治二十四(一八九一)奉新築鎮守社廻廊

                                            詞掌    小松 只市代

                                            村長    百瀬 重太郎

                                            氏子惣代中島  元十

                                                    仙石 五十一

                                                    小林㐂多次郎

                                                    赤羽  綾一

                                            大工    清沢  徳内

                                            同      田中  兼十

            (裏面)明治廿四年九月十三日執行

明治三六(一九〇三)奉葺替鎮守社本殿拝殿

                                    鳥居

                                            社掌    小松只市謹行

                                            氏子惣代中島 常吉

           山本岸次郎

           川上弥次郎

           百瀬 梅吉

                  普請世話人     

  仙石他門次

 〃  弥市

  中島 幾𠮷

  川上 定藏

  小林島次郎

  田中 倉藏

屋根職  常谷次三郎

大工    田中 兼十

氏子中

                村長    百瀬利八郎

                区長    中島 元十

              (裏面)明治卅六年十二月十五日

 

第2節 八幡社

                     玉依姫女      天和弐年壬

天和 二(一六八二)正八幡大神宮奉建立諸願成就皆令満足敬白

                     神宮公官      戌四月十五日

 

                                            埴原村 小松権太夫謹行

                                            大工    赤木平兵衛

                                            木引      三十郎

            (裏面)大小生大子奉建立

享保一八(一七三三)奉修覆八幡大明神宮御本殿祈願如意成就

                                            神主    小松近江守藤原吉次

村中大小産子

        下里   浅右衛門

年寄    中島   文左衛門

葺大工  矢島   勝右衛門

同               半平

            (裏面)干時享保十八癸巳三月十七日

                                                    注「癸巳は誤記か、享保十八年は癸丑歳」

宝暦 九(一七五九)奉修理八幡大神宮本殿諸願成就攸

                                            神主    小松播摩守藤原愛親

名主    赤羽   幸右衛門

            (裏面)宝暦九己卯歳冬十一月吉旦 大小産子中            注「吉旦:良い日、吉日」

安永 四(一七七五)奉修覆八幡大神宮御宝殿

当郷神主小松出雲守藤原愛読

名主    下里   治左エ門

年寄    中島   七左エ門 敬白

同      中島  市郎右エ門

            (裏面)安永四年乙未十二月十三日

寛政 二(一七九〇)奉建立八幡大神宮拝殿    神主    小松出雲守藤原愛継

            (裏面)寛政二庚戌三月廿六日

名主      下里 治左エ門

年寄      赤羽与市右エ門

同所      中島 円右エ門

当社      大小産子惣代

大工棟梁    諏訪大和村      岩波瀬左エ門藤原綱武

小工        塩尻宿          飯田    常左エ門

同          上諏訪村        神澤     八之亟

同          松本本町        山田      常七

同          越後国         亀山     春之亟

同          同国            宮下   八十右エ門

棟梁弟子    当村            今井      常八

同          諏訪大和村      三村     安五郎

小工弟子    塩尻宿         古畑     善三郎

木引        波多村          大久保    平次郎

同          同村            大久保   半左エ門

寛政 二(一七九〇)奉修理八幡大神宮御本殿

            (裏面)寛政二歳庚戌八月吉日

                    神主    小松出雲守藤原愛継

名主     下里 治左衛門

年寄     赤羽与市右エ門

同       中島 円右エ門

文化 二(一八〇五)奉修理八幡宮御本殿

            (裏面)干時文化二歳乙巳八月吉日大小産子中      注「(乙巳は誤記か、文化二年は乙丑歳)

神主     小松出雲守藤原愛継

名主     中島   文右エ門

年寄     中島   中左エ門

年寄     下里   治左エ門

文化 二(一八〇五)奉葺替八幡宮

            (裏面)文化二乙巳年一                          注「(乙巳は誤記か、文化二年は乙丑歳)

                                    信州松本博労町桧皮大工

         矢島㐂兵衛

         同(洞)岩吉

         南雲与市郎

                     日本神祇長(官)直授

文化一二(一八一五)蟇目鳴弦鳴鏑大事社頭康栄祈處    注「蟇目鳴弦鳴鏑大事:第一章二節参照」

小松隼人守藤原愛弘謹行

            (裏面)干時文化十二乙亥年九月初二日   

                                            神主    夤白    注「夤:いん、つつしみおそれる」

⑩                                                     

文政 二(一八一九)奉修理八幡大神御宝殿

            (裏面)干時文政二己卯年廿三日  大小産子中

神主     小松隼人守藤原愛弘

名主     中島   武左エ門

年寄     下里   治左エ門

同       中島    孫兵衛

天保一二(一八四一)奉葺替八幡三座大神御宝殿

            (裏面)干時天保十二辛丑年十二月十四日正迁宮            注「迁宮:せんぐう、宮移し」

                            北埴原村大小産土子中

神主     小松隼人守藤原愛弘代

名主     下里治   左エ門

年寄     赤羽    七郎次

同所     中島    五兵衛

嘉永 四(一八五一)奉立替神門

            (裏面)維時嘉永四辛亥年四月十一日

神主     小松出雲守正藤原愛治代

名主     赤羽     七郎次

年寄     中島     五兵衛

同       中島    繁左エ門

安政 二(一八五五)奉葺替八幡大神宮拝殿並神楽殿

                                            神主    小松出雲守正藤原愛治謹行

            (裏面)時安政二乙卯年十一月廿四日

名主    赤羽  七郎次

年寄    中島  五兵衛

同断    中島 繁左エ門

大小産子中

                       気長定姫命

文久 一(一八六一)奉葺替誉田別尊 御舎殿

                       玉依姫命

注「気長定姫命(おきながたらしひめのみこと)息長足姫命

       誉田別尊(ほんだわけのみこと)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)」

            (裏面)維時文久元辛酉年十二月十一日午未ノ両刻

小松出雲守正藤原愛治代

名主    赤羽 七郎次

年寄    中島 孫兵衛

同      同 繁左エ門

 

世話人  下里惣右エ門

        中島九右エ門

        同 三五兵衛

        同  七兵衛

大工    当村  常八

屋根師  宮村町孫七郎

石屋   高遠所右エ門

                     明治二十一年十一月

明治二一(一八八八)奉葺替八幡社            祠掌    小松  只市代

 豊受社 天神社 八王子社 屋根替 稻荷社新築

 

桧皮大工小松  彦人

杣      狩野  梅治

        同   嘉七

        佐々木角三郎

大工    狩野  清治

 

            (裏面)        惣代    中島 七平      赤羽 勘五郎

                    同 三十郎      中島  丈市

                    下里 只市      同上  喜蔵

                    洞澤 林蔵      洞澤  喜十

                                            注「同上:元文は縦書きで同左」

                             息長帯姫命

明治二十一(一八八八)奉葺替 品田別尊 御舎殿     

                             玉依姫命

                                            注「品陀和気命(ホムダワケノミコト):応神天皇の諱」

八幡社       祠掌      小松只市

東筑摩郡豊丘村外三ヶ村戸長      飯村虎雄

伍長惣代     中島 卯八 赤羽仲蔵

世話人       赤羽勘五郎 中島丈市 中島崎三  洞澤㐂十

            (裏面)廿一年十二月十七日

                            八幡社氏子惣代  中島七平  下里只一 中島三十郎 洞澤林蔵

                           

第3節 十五社

                           寛永五戊辰歳

寛永 五(一六二八)奉造立十五社大明神御宝殿諸願成就攸

                            二月十五日

大小乃産子       敬白

神主    小松梅太夫吉久

            (裏面                          大工    田中  七兵衛

                                                    小澤太郎右エ門

                                                    山口  孫三郎

                      元禄四辛未年

元禄 四(一六九一)奉造立大明神諸願成就

                      八月十四日

願主    惣氏子  小松□□

大工    諏訪    川口太兵衛

        同      宮坂七兵衛

        同      川口利兵衛

        当所    花村瀬兵衛

            (裏面)信州筑摩郡埴原郷敬白    筆者    小松権太夫

                            正徳弐壬辰天

正徳 二(一七一二)奉修覆大明神御社天下太平諸願成就祈攸

                            八月十五日

神主    小松近江守吉次

信州筑摩郡埴原村大小之氏子敬白

            (裏面)                          大工    米山 弥右衛門

        百瀬 仙右衛門

        山本 与五兵衛

        小口  平兵衛

        青木 金右衛門

                            享保五年庚子

享保 五(一七二〇)奉修覆諏訪大明神御本殿一天太平武運長久郷内安

                            三月仲旬

願主    小松近江守吉次敬白

施主    大小産子白

            (裏面)                        普師    金井 源介

        同名善之亟

        同姓文六郎

元文 二(一七三七)奉修覆拾五社大明神御宝殿諸願成就如意攸

大小産子中敬白

神主    小松播摩守藤原愛親

            (裏面)干時元文弐丁巳歳初夏吉祥日

祠官    小松近江守

        同   大藏

普師    小松村清三郎

寛延 三(一七五〇)奉修理諏訪大明神御神殿諸願成就處

願主    大小産子中

神主    小松近江守藤原迩次

                注「迩、邇:ちかい、じ、に、みち」

                            寛延三庚午歳

            (裏面)奉造立当社御花表大小産子所願成就

                            四月十五日

大工    洞澤源之亟

葺師    高田九大夫

明和 三(一七六六)奉修覆十五社大明神宝殿  大小産子

                                            請願成就

            (裏面)維日之(?)明和三丙戌歳冬十二月八日          注「日之:時と言う文字で良いと思う。」

神主    小松近江守藤原迩次

葺師    中田 市右エ門

                注「迩、邇:ちかい、じ、に、みち」

⑧    

                      安永六丁酉歳六月吉詳日      注「吉詳日:多分、吉祥日(きちじょうにち)」

安永 六(一七七七)  奉再興十五社大明神御内宝殿

                      万歳安鎮萬年招来守護所

名主    百瀬 亦兵衛

年寄    同 繁左エ門

同断    赤羽三郎兵衛

当社    大小産子中

            (裏面)

仰当社従往古十五社大明神祭来レリ 然ルニ中昔少有拠而

 

諏訪大明神社号為謬易矣后後不神慮 有験祟

                                                            

之挙恐其(?)而訴領主表 遂上京神祇管嶺折之 

 

裁断而於社号改以旧号皈十五社幸時節御神体

 

御装束悉改之奉幸本殿者也

 

安永六年酉三月二十一日    神主    小松掃部藤原近房代

 

注「矣(や、い):置き字として文末で使われる事が多い。事態の完了や変化、断定、感嘆などを示す。」「茲(ここに)」「皈(かえる):帰の略字」

 

天明 五(一七八五)奉修理十五社大明神御本殿

            (裏面)天明五乙巳歳八月吉日    大小産子中

越後屋根師        九八郎

名主    百瀬    亦兵衛

神主    小松掃部正藤原通

文化一〇(一八一三)奉造替十五社大明神御宝殿

            (裏面)文化十癸酉六月四日

神主    小松津守藤原近久

名主    百瀬  半左エ門

年寄    赤羽  團右エ門

同所    赤羽  三郎兵衛

天保九(一八三八)奉葺替十五社大明神御舎殿

            (裏面)維時天保九戊戌年林鐘廿五日                      注「林鐘: 陰暦六月」

神主    小松掃部正藤原近永

大小産子中

名主    赤羽 五郎代

嘉永 六(一八五三)奉建替十五社大明神鳥居

小松掃部正藤原近永代

            (裏面)干時嘉永六癸丑稔九月十三日

名主    仙石杢右衛門

世話人  赤羽 伝五郎

同      百瀬 亦兵衛

同      百瀬甚五兵衛

同      赤羽 三五郎

中宮    大小産子中

合棟梁    倉右エ門

            八助

                     三元十八神道陰陽行叓

安政 六(一八五九)謹修蟇目鳴弦鳴鏑大事

                     唯一神道清祓玅業祭

 藤原𠮷連謹行

招幸災祓祈

 両神主祇白

            (裏面)安永六未年八月九日ヨリ二夜三日

                     注「十八神道吉田神道で説く理法の一つで、天・地・人の三道に各六つの神を説いて十八神道とか三元十八神道等と云う。」

明治十六(一八八三)奉葺替十五社大神正殿

                                            祠掌    百瀬  𠮷房

            (裏面)維時明治十六年十二月十日正遷宮氏子中

戸長    中島善左エ門

筆生    百瀬 重太郎

氏子惣代赤羽 傳五郎

同      百瀬  寛十

同      仙石 仲三郎

同      百瀬 利八郎

屋根師  木村 徳次郎

明治二三(一八九〇)奉葺替十五社大明神御本殿

                                            祠掌    小松  只市

            (裏面)明治二十三年十二月廿五日正遷宮氏子中

村長    百瀬 重太郎

区長    百瀬 登一郎

右代理者赤羽  源市

 

氏子惣代百瀬  寛十

        仙石 仲三郎

        百瀬 利八郎

        赤羽  梅弥

屋根師 竹本 金次郎

⑯明治二三(一八九〇)奉新築廻廊清祓禾犮)                             注「禾犮:祓で良いと思う。」

                                            祠掌    小松  只市

            (裏面)明治廿三年十二月廿五日

村長    百瀬 重太郎

区長    百瀬 登一郎

右代理者赤羽  源市

 

氏子惣代百瀬  寛十

同      仙石 仲三郎

同      百瀬 利八郎

同      赤羽  梅弥

大工    太田 岩太郎

同      田中  長次

                                    (大正以降省畧)

 

            以上小松昌之氏調査記録に拠る。

 

 

 

第8章 補遺・補足

第1節 神社で使われる名称

①神社の称号

神社の称号は普通「~神社」「~神宮」「~宮」「~大社」「~社」となっている。「~」は地名が入る場合が一般的で、「神社、神宮、大社」の部分が社号である。

例えば埴原神社・諏訪大社の社号は各々「神社・大社」である。

②神社の祭神名

明治末神社合祀前の八幡社祭神は息長足姫命誉田別命玉依姫命である。

併し普段、祭神名の事を気に掛ける機会は殆どなく、八幡様の様に呼んで居たと思う。

③神号

息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)」の「命(みこと)」の部分が神号である。また蔵王権現秋葉大権現、稻荷明神等でも「権現、大権現、明神」の部分が神号である。

 

第2節 明治政府の神仏分離政策での神号

①比較的耳にする神号の明神、大明神、権現、大権現

此等は仏教的な神の称号の一つである。中世から近世に(鎌倉時代から江戸時代)かけて明神、権現は民を救済するために現れた仏教の仏の化身であるという考え方(本地垂迹説)があった。            

②明神

明治元年(1868年)3月28日の神仏判然令により、神号に於ける仏教由来の言語は取り除かれるよう指令された。この法令では明神号自体は取り払うべき言葉としては示されていなかったものの、明神号はこの頃、仏教関連用語であると見られており、使用する神社は減少していった。それでも、現在は「稲荷大明神」など明神号・大明神号で呼んでいる神社は残っている。

③権現

此は神を仏教の仏や菩薩が仮の姿で現れたものとする神号である。明治政府の神仏分離令神仏判然令)で「権現」の神号や修験道が一時禁止された為、権現社・権現宮・権現堂の多くが廃された。権現の神々は政策により本来の神社の祭神に戻されたり、修験道の神々は強制的に神道の神々として改変(祭神の変更)された。後者の事例としては復古神道国学の影響下で、火難除けの愛宕権現は廃されて愛宕大神に、白山権現(白山修験)が廃されて白山比咩大神の呼称となった。

併し、一般の人々が日常使う言葉としては「村の明神様、権現様」であったはずである。

 

第3節 明治政府の神社合祀(神社整理)政策

①神社合祀政策は1906年(明治39年)の勅令に拠って大きく進められた。

a)神社合祀とは明治初頭と末頃に、国家管理のために明治政府が推進した神社の整理合併策である。

b)合祀政策の中に一町村一神社の基準を設けて整理合併を進め、其れによる神社を村社とした。

c)村社とする事により公費が支出され、行政の管理が関わるものとなる。

②合祀政策よって、神社の数を減らし残った神社に経費を集中させることで一定基準以上の設備・財産を備えさせた。此により神社の威厳を保たせて、神社の継続的経営の確立をはかり、公費財政負担を軽減させる事にあった。

③埴原神社の場合、境内地は元より、村有林も神社の財産として編入され、神社所有林になっている。

 

第4節 十干十二支(じっかんじゅうにし)

①十干

a)訓読み:甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・己(つちのと)・庚(かのえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)。

b)音読み:甲(こう)・乙(おつ)・丙(へい)・丁(てい)・戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛(しん)・壬(じん)・癸(き)

②十二支(干支:えと)

a)訓読み:子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・卯(う)・辰(たつ)・巳(み)・午(うま)・未(ひつじ)・申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥(い)

b)音読み:子(し)・丑(ちゅう)・寅(いん)・卯(ぼう)・辰(しん)・巳(し)・午(ご)・未(び)・申(しん)・酉(ゆう)・戌(じゅつ)・亥(がい)               

③十干十二支

a)甲子(きのえね)乙丑(きのとうし)の様に十干と十二支を組み合わせると、六十組の組み合わせ(十と十二の最小公倍数は六十)になり、其れを年号に併記して年を示す。此で六十年一回りの表記が出来て、年の誤記を防げる。

b)例えば、延宝六戊午歳(一六七八年)(えんぽうろくねん、つちのえうまのとし)となり、此は江戸前期で、其の二年後に綱吉が五代将軍となる。忠臣蔵討ち入りの二十四年前である。

 

第5節 近世以前の人名

①近世(江戸時代)までは親や主君のみが実名・諱(忌み名、いみな)で呼べた。実名を親や主君以外が呼ぶ事は無礼である(憚られる)とされていた。

本文中の年寄、名主等の「文右衛門、与市右衛門、孫兵衛」等も実名ではなく通称である。当時は家によって代々同じ名を使うので、名を呼ぶ時は「先代・当代・何代目・何世」の様に「代・世」等と付けて個人を特定する事になる。例えば陶芸家「・・代目酒井田柿右衛門作の茶碗」の様にである。

②名の表し方

(ア)家名・名字     (イ)仮名・通称・官職名    (ウ)氏うじ      (エ)姓かばね    (オ)実名・諱いみな      の順で表す。

                                                                                                

例:忠臣蔵の人名

吉良上野介

・名前は「吉良上野介朝臣義央」(きらこうずけのすけみなもとあそんよしなか)である。

・(ア)家名が「吉良」、(イ)官職名が「上野介」、(ウ)氏が「源」、(エ)姓が「朝臣」、(オ)実名・諱が「義央」である。吉良上野介は官職があるから通称は使わなかった。(吉良上野介の通称は左近)

                                                                                             

大石内蔵助

・名前は「大石内蔵助藤原良雄」(おおいしくらのすけふじわらのよしたか)」である。

・(ア)家名(名字)が「大石」、(イ)通称が律令官名で内蔵寮(くらりょう、うちのくらのつかさ)の次官を意味する「内蔵助」、(ウ)氏が「藤原」、(オ)実名・諱が「良雄」となる。           

 

③此の様な名は本文中の近世(江戸時代)迄で、神主名の一つ「小松近江守藤原邇次」の表記も同様に理解出来る。併し、近代(明治)以後は現代と同じで、神主名も「小松只市」である。

敢えて私の名で表すと、「赤羽輿市右衛門源重信」となります。家名が「赤羽」、通称が「輿市右衛門」、源氏の流れを汲むとすると氏が「源」、諱・実名が「重信」となります。

他の例で、歌舞伎役者の「片岡仁左衛門」なら「片岡仁左衛門○○□□」となる。「○○」は戸籍上の「氏」で、「□□」は戸籍上の「名」を入れて表します。

 

                 

 

2017年8月19日更新